寺院紹介

「龍玉山 善然寺」

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名称 龍玉山西光院善然寺
創建 六〇〇年以上前(一二四六年と伝承されています)
開山 西光上人

○善然寺の歴史
開山は西光上人ということですが、数度の火災に遭っているため古文書、過去帳等残っておらずはっきりしません。ただ、元禄八年(一六九五年)十一月、仏元という僧が増上寺系統の各寺院を回り記述した『蓮門精舎旧詞』(れんもんしょうじゃきゅうし)によれば、当時の善然寺住職誠誉上人は二七世であると記せられている事から、仮に一代が十五年とすると元禄八年(一六九五年)から四〇五年前正応(しょうおう)三年(一二九〇年)頃創建されたことになります。

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龍玉山西光院と号していましたが、天保の頃には澁谷山(じゅうこくさん)と号すようになり、その後いつの頃からか、山門の玉を握っている龍の彫刻に因み、もとの龍玉山西光院に戻りました。なお、法然上人六五〇回忌記念事業として、天保七年(一八三六年)造立したという山門は、現本堂再建の際、修理し茅葺を銅葺きにしました。掲げている「龍玉山」の扁額(写真裏表紙)は大本山増上寺冠誉大僧正の書です。
『新編相模国風土記稿』(しんぺんさがみのくにふうどきこう)によると天保の頃には、境内に十三堂があり、更に今田に別院として阿弥陀堂を所有していたと記述されています。

○寺宝について(写真参照)

一 本尊阿弥陀三尊像(中央・阿弥陀如来九六・七㎝、向かって右側・観音、向かって左側・勢至
菩薩六十㎝)
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現在ある本尊については、明和(めいわ)三年(一七六六年)修補されたという記述があります。また、両脇待台座裏墨署銘(りょうわきじだいざうらぼくしょめい)があります。本尊の首については、結城(茨城県結城市結城町)弘経寺(ぐぎょうじ)九代の住職であった業誉上人の持仏で、業誉上人は後に、鎌倉光明寺三四代住職となり、さらに増上寺二一代住職になった方です。
増上寺住職になって、寛永十九年(一六四二年)五月十八日に善然寺に賜わされたということが、業誉上人の花押(かおう)のある古文書に記されています。最近の修復は、昭和六一年に金泥等も塗り替えられました。

二 地蔵菩薩半跏像(四四㎝)江戸時代作

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輪光背(りんこうはい)つき、像は金泥塗り、玉眼(ぎょくがん)入りで、白毫(びゃくごう)には水晶をはめ込み、左足を垂下している地蔵菩薩の半跏像は珍しいものです。

三 善導大師像(三七㎝)文政四年(一八二一年)以前作
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寄席木造り、玉眼、彩色。また、次の銘が台座に刻まれています。善導大師像台座内墨書銘「春再興 大佛工鎌倉扇谷(おうぎやつ)二祖大師台座新造 三橋永助 文政四年八月吉日 伊沢源七 伊沢善助 吉田新五郎」

浄土五祖の一人で、特に初唐の浄土教を盛り立てた僧の像です。浄土宗寺院では本尊阿弥陀如来のほか善導大師と法然上人の像を安置するのがひとつの決まりになっています。

四 阿弥陀如来坐像(一尺二寸、三九㎝)江戸時代作
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輪光背をつけ、額の白毫は、水晶入れ、説法印をしています。元禄八年頃(一六九六年)の当時本尊は阿弥陀坐像で一尺一寸とされているので、当時の本尊の可能性も考えられます。あるいは『風土記』に記述されている当寺の阿弥陀堂にあったものかもしれません。

五 法然上人坐像(三七㎝)江戸時代

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寄木造、玉眼、彩色。浄土宗の開祖の像です。

六 阿弥陀如来坐像(二五㎝)江戸期作

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中央に橘の文様のある蓮弁形(れんべんけい)光背があり、施無畏印(せむいいん)で金泥塗りであり、こちらの像が今田の阿弥陀堂のものかもしれません。

七 聖観世音菩薩坐像(九十㎝)江戸時代作
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寄せ木作り、玉眼、漆箔。宗王朝式着付けと衣文を持つ胸の部分が外れ体内に聖観音の小像を蔵する事から「腹籠(はらごも)りの観音」といわれています。平成十八年一月 渡邊 勢山大仏師(檀家渡邊一男氏弟)、塗り師渡邊 雄氏(檀家)により修復されました。

* 胎内仏(十七・五㎝)室町初期作
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旧詞に「滝見観音で御長四寸余渋谷金王丸(こんのうまる)の守本尊」と記述されています。
もとは、滝見観音のみ独立していたのを、現在の聖観世音菩薩坐像(いわゆる鞘仏(さやぶつ))の中に納めたもので、鞘仏の胸の所がはずれるようになっています。禅定印。寄木造、玉眼、漆箔(しっぱく)、漆塗、金泥、玉眼いり、白毫には、水晶がはめ込まれており頭にいただいた宝冠の飾りは見事です。平成十八年に聖観音とともに修復されました。

八 閻魔(えんま)大王(十王像のひとつ)(七三・七㎝)江戸期作

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当時、境内のどこかに十王堂があったことは『風土記』にも記載されているところですが、この十王堂には、秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王、変成王(へんじょうおう)、太山王(たいさんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五動転輪王(ごどうてんりんおう)が祀られていたものと思われます。そのうちの二体が現存しています。

九 地蔵菩薩立像(九五㎝)

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寄木造、玉眼、彩色。頭部は、南北朝前半頃、尊体は、室町前期頃の作と思われます。

十 虚空蔵菩薩坐像(二三・五㎝)江戸時代作

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宝冠をいただき左手には宝珠らしきものを、右手には密教仏具の金剛杵(こんごうしょ)を握っている虚空蔵菩薩らしき像で、蓮弁形後背とも金泥塗りです。この仏像は、秘仏となっており、普段は黒厨子(くろずし)の中に安置されていますが、二〇五〇年にご開帳されます。
十一 念仏供養塔 文化十二年(一八一五年)一二三・五㎝ 安山岩

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前面には、「南無阿彌陀仏」という名号が、増上寺大僧正(教典海州)の筆跡により刻まれています。

十二 地蔵菩薩立像(四体)

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左から①年号不明(江戸時代)半肉彫り六一㎝ 安山岩  ②延宝(えんぽう)九年(一六八一年)丸彫り七三㎝ 安山岩(女性信者で造立されたものです)  ③明和八年(一七七一年)丸彫 六二㎝ 火成岩④享保五年(一七二〇年)丸彫り 七六㎝ 火成岩

○渋谷金王丸について
 父親は渋谷重国(諸説有り)で相模の渋谷(現在の神奈川県綾瀬市付近)に領地をもつ名主でした。後に相模渋谷の早川城(綾瀬市)に移ったといわれています。名前の由来は「金剛夜叉明王」に祈って授かった子なので、上下の一字を取って金王丸と名づけたそうです。金王丸については、いろいろな説があり、はっきり分かっていません。一説によると、永治(えいじ)元年(一一四一年)八月十五日生まれで、源義朝にしたがって保元の乱に参加。義朝の死後、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を名乗り出家して義朝の霊を弔(とむら)っていました。(この後二六年間の消息は不明)その後、義朝の子、源頼朝に、不仲となった弟義経を倒すように命を受けました。昌俊は初め固辞していましたが(主君の子供同士の争いに嫌気がさしたため)、強く頼まれ断りきれず、文治元年十月(一一八五年十月)京都に上りました。同月二十三日夜、義経の館に討ち入りましたが、
はじめから義経を討つ考えはなく捕らえられて立派な最期を遂げたそうです。
○竹尾氏について
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 竹尾氏は下土棚村の旗本でした。墓石によれば竹尾氏は藤原姓を名乗っていたことが分かります。「姓氏家系大辞典」によれば、藤原姓竹尾氏は三河国額田(みかわこくぬかた)郡(愛知県)の豪族で、竹尾郷を本貫(竹尾姓を作った祖先の出身地)とし舞木城(岡崎市)を居城としていたとあります。
 家系図には竹尾三郎右衛門某は徳川広忠、家康に仕え、その子元成のとき下土棚村を与えられたとあります。文禄三年(一五九四年)七月二日、元就は三十七才で亡くなり、下土棚村に葬られ、それ以後代々この地に葬ると系譜しるされています。戒名を見ますと、浄土宗のものではなく浄土真宗のものであることから、善然寺は、竹尾氏の菩提寺ではなかった事が推察されます。
以前墓地は、富士見台小学校のある場所にあったものを小学校建設にあたり移転したものです。その時に、出土した刀剣、手鏡、笄(こうがい)(写真十一)は寺に保存されています。

○善然寺の寺子屋

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善然寺の寺子屋の年限を推察すると、享保年間(一七一六~一七三五年)にはすでに寺子屋教育が始まっており元治(げんじ)二年(一八六五年)を最後とする約百四十年間(諸説あり)継続的に行われています。(二三世竜誉上人(享保)~三六世喜誉上人(元治)まで。このうち、三一世弁誉上人、三二世祥誉上人、三六世喜誉上人は筆子が建てた墓石(写真十四、十五)がある)。これは県内では最長記録で、全国的に見ても他の追随を許さぬものです。(『下土棚あれこれ』『善然寺考』より)

十三 納骨堂について

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次世代の後継者に恵まれず、近い将来お墓が無縁になるかもしれないと不安を懐(いだ)かれている方々や、建立そのものをためらわれている方々のご要望に応え、二〇〇三年に建立されました。宗派問わず一般の方もお預かりさせて頂いています。

十四 ペット納骨堂

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一緒のお寺にという檀家さんの要望により作られました。個別にお骨をお預かりするものと合葬させて頂くものとあります。一般の方からもお預かりしています。

高座組 善然寺 戸田順教