「法爾山 天然寺 阿弥陀三尊立像」
火曜日, 12月 21st, 2010 Posted in 寺院紹介 | コメントは受け付けていません。 天文年間に鎌倉大本山光明寺第十九世然譽禅芳和尚の創建で、
蓮社号は法蓮社、山号、寺号はここに由来している。
本尊は阿弥陀三尊立像(脇侍 観世音菩薩・勢至菩薩)であり、
さらに善導大師立像、法然上人坐像が安置されている。
本尊・阿弥陀如来像は春日作と伝えられている。善導大師像、法然上人像
はそれぞれの胎内納入文書によれば、慶長十五年(1610年)
九月十五日に當寺六代鏡蓮社上人が六百七十九人の念仏講に
逆修の為に建立された旨が記されている。
鎌倉組天然寺 関谷泰然
「龍玉山 善然寺」
水曜日, 10月 20th, 2010 Posted in 寺院紹介 | コメントは受け付けていません。名称 龍玉山西光院善然寺
創建 六〇〇年以上前(一二四六年と伝承されています)
開山 西光上人
○善然寺の歴史
開山は西光上人ということですが、数度の火災に遭っているため古文書、過去帳等残っておらずはっきりしません。ただ、元禄八年(一六九五年)十一月、仏元という僧が増上寺系統の各寺院を回り記述した『蓮門精舎旧詞』(れんもんしょうじゃきゅうし)によれば、当時の善然寺住職誠誉上人は二七世であると記せられている事から、仮に一代が十五年とすると元禄八年(一六九五年)から四〇五年前正応(しょうおう)三年(一二九〇年)頃創建されたことになります。

龍玉山西光院と号していましたが、天保の頃には澁谷山(じゅうこくさん)と号すようになり、その後いつの頃からか、山門の玉を握っている龍の彫刻に因み、もとの龍玉山西光院に戻りました。なお、法然上人六五〇回忌記念事業として、天保七年(一八三六年)造立したという山門は、現本堂再建の際、修理し茅葺を銅葺きにしました。掲げている「龍玉山」の扁額(写真裏表紙)は大本山増上寺冠誉大僧正の書です。
『新編相模国風土記稿』(しんぺんさがみのくにふうどきこう)によると天保の頃には、境内に十三堂があり、更に今田に別院として阿弥陀堂を所有していたと記述されています。
○寺宝について(写真参照)
一 本尊阿弥陀三尊像(中央・阿弥陀如来九六・七㎝、向かって右側・観音、向かって左側・勢至
菩薩六十㎝)

現在ある本尊については、明和(めいわ)三年(一七六六年)修補されたという記述があります。また、両脇待台座裏墨署銘(りょうわきじだいざうらぼくしょめい)があります。本尊の首については、結城(茨城県結城市結城町)弘経寺(ぐぎょうじ)九代の住職であった業誉上人の持仏で、業誉上人は後に、鎌倉光明寺三四代住職となり、さらに増上寺二一代住職になった方です。
増上寺住職になって、寛永十九年(一六四二年)五月十八日に善然寺に賜わされたということが、業誉上人の花押(かおう)のある古文書に記されています。最近の修復は、昭和六一年に金泥等も塗り替えられました。
二 地蔵菩薩半跏像(四四㎝)江戸時代作

輪光背(りんこうはい)つき、像は金泥塗り、玉眼(ぎょくがん)入りで、白毫(びゃくごう)には水晶をはめ込み、左足を垂下している地蔵菩薩の半跏像は珍しいものです。
寄席木造り、玉眼、彩色。また、次の銘が台座に刻まれています。善導大師像台座内墨書銘「春再興 大佛工鎌倉扇谷(おうぎやつ)二祖大師台座新造 三橋永助 文政四年八月吉日 伊沢源七 伊沢善助 吉田新五郎」
浄土五祖の一人で、特に初唐の浄土教を盛り立てた僧の像です。浄土宗寺院では本尊阿弥陀如来のほか善導大師と法然上人の像を安置するのがひとつの決まりになっています。
輪光背をつけ、額の白毫は、水晶入れ、説法印をしています。元禄八年頃(一六九六年)の当時本尊は阿弥陀坐像で一尺一寸とされているので、当時の本尊の可能性も考えられます。あるいは『風土記』に記述されている当寺の阿弥陀堂にあったものかもしれません。
五 法然上人坐像(三七㎝)江戸時代
六 阿弥陀如来坐像(二五㎝)江戸期作

中央に橘の文様のある蓮弁形(れんべんけい)光背があり、施無畏印(せむいいん)で金泥塗りであり、こちらの像が今田の阿弥陀堂のものかもしれません。
寄せ木作り、玉眼、漆箔。宗王朝式着付けと衣文を持つ胸の部分が外れ体内に聖観音の小像を蔵する事から「腹籠(はらごも)りの観音」といわれています。平成十八年一月 渡邊 勢山大仏師(檀家渡邊一男氏弟)、塗り師渡邊 雄氏(檀家)により修復されました。
旧詞に「滝見観音で御長四寸余渋谷金王丸(こんのうまる)の守本尊」と記述されています。
もとは、滝見観音のみ独立していたのを、現在の聖観世音菩薩坐像(いわゆる鞘仏(さやぶつ))の中に納めたもので、鞘仏の胸の所がはずれるようになっています。禅定印。寄木造、玉眼、漆箔(しっぱく)、漆塗、金泥、玉眼いり、白毫には、水晶がはめ込まれており頭にいただいた宝冠の飾りは見事です。平成十八年に聖観音とともに修復されました。
八 閻魔(えんま)大王(十王像のひとつ)(七三・七㎝)江戸期作

当時、境内のどこかに十王堂があったことは『風土記』にも記載されているところですが、この十王堂には、秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王、変成王(へんじょうおう)、太山王(たいさんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五動転輪王(ごどうてんりんおう)が祀られていたものと思われます。そのうちの二体が現存しています。
九 地蔵菩薩立像(九五㎝)

寄木造、玉眼、彩色。頭部は、南北朝前半頃、尊体は、室町前期頃の作と思われます。
十 虚空蔵菩薩坐像(二三・五㎝)江戸時代作
宝冠をいただき左手には宝珠らしきものを、右手には密教仏具の金剛杵(こんごうしょ)を握っている虚空蔵菩薩らしき像で、蓮弁形後背とも金泥塗りです。この仏像は、秘仏となっており、普段は黒厨子(くろずし)の中に安置されていますが、二〇五〇年にご開帳されます。
十一 念仏供養塔 文化十二年(一八一五年)一二三・五㎝ 安山岩

前面には、「南無阿彌陀仏」という名号が、増上寺大僧正(教典海州)の筆跡により刻まれています。
十二 地蔵菩薩立像(四体)

左から①年号不明(江戸時代)半肉彫り六一㎝ 安山岩 ②延宝(えんぽう)九年(一六八一年)丸彫り七三㎝ 安山岩(女性信者で造立されたものです) ③明和八年(一七七一年)丸彫 六二㎝ 火成岩④享保五年(一七二〇年)丸彫り 七六㎝ 火成岩
○渋谷金王丸について
父親は渋谷重国(諸説有り)で相模の渋谷(現在の神奈川県綾瀬市付近)に領地をもつ名主でした。後に相模渋谷の早川城(綾瀬市)に移ったといわれています。名前の由来は「金剛夜叉明王」に祈って授かった子なので、上下の一字を取って金王丸と名づけたそうです。金王丸については、いろいろな説があり、はっきり分かっていません。一説によると、永治(えいじ)元年(一一四一年)八月十五日生まれで、源義朝にしたがって保元の乱に参加。義朝の死後、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を名乗り出家して義朝の霊を弔(とむら)っていました。(この後二六年間の消息は不明)その後、義朝の子、源頼朝に、不仲となった弟義経を倒すように命を受けました。昌俊は初め固辞していましたが(主君の子供同士の争いに嫌気がさしたため)、強く頼まれ断りきれず、文治元年十月(一一八五年十月)京都に上りました。同月二十三日夜、義経の館に討ち入りましたが、
はじめから義経を討つ考えはなく捕らえられて立派な最期を遂げたそうです。
○竹尾氏について
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竹尾氏は下土棚村の旗本でした。墓石によれば竹尾氏は藤原姓を名乗っていたことが分かります。「姓氏家系大辞典」によれば、藤原姓竹尾氏は三河国額田(みかわこくぬかた)郡(愛知県)の豪族で、竹尾郷を本貫(竹尾姓を作った祖先の出身地)とし舞木城(岡崎市)を居城としていたとあります。
家系図には竹尾三郎右衛門某は徳川広忠、家康に仕え、その子元成のとき下土棚村を与えられたとあります。文禄三年(一五九四年)七月二日、元就は三十七才で亡くなり、下土棚村に葬られ、それ以後代々この地に葬ると系譜しるされています。戒名を見ますと、浄土宗のものではなく浄土真宗のものであることから、善然寺は、竹尾氏の菩提寺ではなかった事が推察されます。
以前墓地は、富士見台小学校のある場所にあったものを小学校建設にあたり移転したものです。その時に、出土した刀剣、手鏡、笄(こうがい)(写真十一)は寺に保存されています。
○善然寺の寺子屋
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善然寺の寺子屋の年限を推察すると、享保年間(一七一六~一七三五年)にはすでに寺子屋教育が始まっており元治(げんじ)二年(一八六五年)を最後とする約百四十年間(諸説あり)継続的に行われています。(二三世竜誉上人(享保)~三六世喜誉上人(元治)まで。このうち、三一世弁誉上人、三二世祥誉上人、三六世喜誉上人は筆子が建てた墓石(写真十四、十五)がある)。これは県内では最長記録で、全国的に見ても他の追随を許さぬものです。(『下土棚あれこれ』『善然寺考』より)
十三 納骨堂について

次世代の後継者に恵まれず、近い将来お墓が無縁になるかもしれないと不安を懐(いだ)かれている方々や、建立そのものをためらわれている方々のご要望に応え、二〇〇三年に建立されました。宗派問わず一般の方もお預かりさせて頂いています。
十四 ペット納骨堂

一緒のお寺にという檀家さんの要望により作られました。個別にお骨をお預かりするものと合葬させて頂くものとあります。一般の方からもお預かりしています。
高座組 善然寺 戸田順教
「良忠寺と福神漬と身代わり地蔵」
火曜日, 10月 5th, 2010 Posted in 寺院紹介 | コメントは受け付けていません。昔々あるところに、まごべえさんという人がいました。まごべえさんには、一人の男の子がおりましたが、お母さんはその子の出産の時に亡くなってしまいました。 男の子の名前は、寅吉といいました。
その寅吉が少年になった頃、お父さんは二人目の奥さんと結婚しました。しかし、そのお母さんは先妻の子である寅吉が邪魔になり、まごべえさんが留守の時、煮えたぎる大きなお釜の中に寅吉を投げ落とし、寅吉を殺してしまいました。継母は寅吉の死体を馬小屋のワラの中に隠し、知らん顔をしていました。
夕方になり、まごべえさんが誰かと楽しそうに話しながら帰ってきました。継母が見てみると、そこには先ほど殺したはずの寅吉が立っておりました。驚いた継母は慌てて馬小屋に行き、ワラをどかして見ると、そこには一体のお地蔵さんが横たわっていました。それを見た継母は、自分のした事が大変恐ろしい事だとやっと気づきました。継母は、まごべえさんと寅吉に自分の犯した罪を詫び心から謝りました。
しかし、それだけでは寅吉があまりにも可哀そうだという事で、江戸日本橋にあった漬物問屋の大木商店に寅吉を奉公に出し、まごべえさんと継母は諸国巡礼の旅に出る事にしました。そして、馬小屋のワラのしたにあったお地蔵さんを良忠寺に奉納しました。以来、近隣の人々はそのお地蔵さんを「身代わり地蔵」と呼び、厚く信仰しました。心病む人はお地蔵さんに手を合わせ、病気の人は自分の身代りにと手を合せました。
さて、奉公に出された寅吉はたいそう頭が良く、大変よく働きました。それを見ていた漬物問屋の主人は自分の娘のお婿さんに寅吉を迎えました。それ以来、その漬物は代々「大木寅吉商店」と名乗りました。
やがて時が経ち、初代から数えて9代目の大木寅吉の時、漬物を作る時に出るカスを7種類集めて、新しい漬物を考えつきました。7種類だった事から、七福神にあやかり、福神漬と名付けました。
ちょうどその頃、日清日露の戦争があり、軍隊の保存食に適している(名前も縁起が良い)という事で、日本軍により大量に買い上げられました。お陰で大木寅吉商店は大いに儲かりました。9代目の主人、大木寅吉は大変喜び、こうして今が有るのも、初代の寅吉のお陰であるという事で、良忠寺境内にあった、商売の守り本尊の如意輪観音を奉る観音堂を全面的に改築し、代々の寅吉の墓を近くに建立しました。
しかし、その後第二次大戦で日本橋周辺はひどい空襲にあい、大木寅吉商店一家は行方知れずとなってしまいました。
時が経ち、良忠寺には「身代わり地蔵」と如意輪観音、観音堂、大木寅吉の墓だけが残り、当時を偲ばせています。
京浜組 良忠寺 森本有史
「深谷山 専念寺」
月曜日, 9月 27th, 2010 Posted in 寺院紹介, 未分類 | コメントは受け付けていません。専 念 寺 略 縁 起
深谷山青陽院専念寺と号し浄土宗、当寺の前身は平安朝頃の草創、福泉寺と言い真言宗。現在地の西五百米に、堂山と称する丘があり、そこが福泉寺の堂跡と伝えられる。
永禄年間(今より約四百年程前)時の住職長順法印が浄土宗の感譽存貞上人の教を聞き、直ちに浄土宗に帰入し、自らは念仏を弘める為に、福泉寺を感譽上人に差し上げて全国行脚に出られた。上人は福泉寺を現在地に移すと共に寺号を一心院専念寺と改め、その後また青陽院専念寺となった。
本尊 薬師如来、行基菩薩の作、鎌倉権五郎景政の守本尊を安置す。前九年の役(約千五十年前)の合戦中、敵将鳥海弥三郎の射た矢が景正の左眼に中つた。辛うじて矢を抜き取つたが、後の苦痛が甚だしく耐えられない程であつた。景政心をこめて故郷の薬師如来に祈願した処間もなく苦痛は和らぎ眼疾は治癒した。景政の領地であつた当寺にその仏像が納められ、今日迄眼の薬師として近在に有名である。
当初は堂内に御祭りしてあつたが、後に宮殿内に納め、秘仏として扱うこととなる。戌年秋(十三年目)毎に開扉され、近郷よりの参拝者が境内に溢れる盛況である。
因に西隣に祭られてある三嶋神社は景政の廟跡と伝えられる。
【本尊と仏像】
正式名称 薬師瑠璃光如来
作 者 行基・伝
建 立 天平十年(七三八)
東方浄瑠璃世界の教主で、そのことは「薬師瑠璃光如来本願経」に説かれている。
薬師如来を信仰すれば、衆生の人格を高め、衣食住を豊かにし、病苦・災難を除く、という十二の大願を立て、人々を病苦などから救済すると、常に東方浄瑠璃世界にて念じています。病苦といっても、体の疾患による病気もあれば、心の病気もあります。薬師如来が左手に薬瓶・宝珠を持っているのは、この中に人びとの病を治す薬が入っているからです。右手は、上に上げて五本の指を伸ばし、外に向けて施無畏印を結んでいます。施無畏とは、何ものをも畏れることのない力をあたえるということで、徳をほどこし、畏れを取り去りたいと常に思っているのが、薬師如来です。いわば、薬師如来は心の病・体の病を治す偉大な力を持っていることから、医王と呼ばれています。
当山には二体の薬師如来坐像が安置されています。本尊は十二年に一度、戌年に開扉される秘仏ですから、常には前立像が礼拝の対象として置かれています。
本尊は、像高三八センチ、寄木造で玉眼をはめ、漆塗り。作風から、地方仏師の作と考えられます。
前立像は、像高六八センチ、寄木造で体部は量感があるものの、本尊と比べると時代は下がりますが、それでも室町時代をさがることはないと考えられます。
阿弥陀如来坐像(上品上生印)
天保二年(一六八二)嘉左衛門・作
像高二七・五センチ、寄木造、玉眼、漆箔
阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主で、浄土宗徒にとって信仰の対象となっている仏さまです。阿弥陀如来は「今、現にましまして説法したもう」仏として、古くから信仰されてきました。
十二神将像
薬師如来は脇侍として日光菩薩と月光菩薩、それに十二神将を従えています。残念ながら当山には日光・月光両菩薩は居ませんが、十二神将は揃っています。十二神将とは、宮毘羅(本地は弥勒菩薩で子神)、伐折羅(本地は阿弥陀如来で寅神)、迷企羅(本地は勢至菩薩で丑神)、安底羅(本地は観音菩薩で卯神)、頞頥羅(本地は如意輪観音で辰神)、瓓底羅(本地は虚空菩薩で巳神)、因陀羅(本地は地蔵菩薩で午神)、波夷羅(本地は文殊菩薩で未神)、摩虎羅(本地は大威徳菩薩で申神)、真達羅(本地は普賢菩薩で酉神)、招杜羅(本地は大日如来で戌神)、毘羯羅(本地は釈迦如来で亥神)の十二人の神をいいます。
また中央に客仏ながら、不動明王が鎮座しています。
【行事・その他】
専念寺とお開帳
専念寺の本尊薬師如来は、鎌倉権五郎景政の守本尊で、目の病気に大変霊験あらたかな仏様として「深谷目薬師」の名で呼ばれ、近在に有名です。普段は秘仏として宮殿の中に納められており、十二年に一度だけ開扉されてお参りすることができます。「お開帳」の名で親しまれている開扉法要は、十二年毎戌年に開催されます。
双盤念仏
専念寺には昭和五十九年に横浜市無形文化財の指定を受けた「双盤念仏」が伝えられており、お開帳や十夜法要に勤められています。双盤念仏というのは、釣鉦鈷の変形した双盤という楽器を打ち鳴らしながら、節をつけて唱える念仏のことです。専念寺に伝わる双盤念仏は深谷流と呼ばれています。
港南組専念寺 伊藤知道
「竜香院 宗忠寺」
金曜日, 7月 16th, 2010 Posted in 寺院紹介 | コメントは受け付けていません。宗忠寺は文禄三年(一五九四年)
開山西蓮社雲譽上人以来現住職まで二十三代となります。
その後家康の四男松平忠吉が武州忍城主十万石に封じられた際、
建立当時は父の名をとり長隆寺と称しておりましたが宗忠の没後寺
港北組 宗忠寺 夏見成貴
東方山薬王寺
土曜日, 5月 1st, 2010 Posted in 寺院紹介 | コメントは受け付けていません。薬王寺は、現在横浜市磯子区洋光台にあります。
薬王寺の開創は、鎌倉時代末期1333年、矢部野村に建立されたと伝えられています。当山本尊の奥之院朝日薬師如来には次のような言い伝えがあります。奈良時代730年頃全国に疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)していました。行基(ぎょうぎ)〔668~749年〕はある朝、東の空に向って、南無薬師医王如来様に「人々の苦しみを救ってください」といっしんに礼拝しました。すると輝く朝日の中に薬師如来のお姿が現れ、行基は伏し拝みその目に焼きついた仏さまの姿を霊木三尺二寸の立像に刻みました。この仏さまを祀(まつ)って祈願(きがん)すると、人々の病は癒えてもとの明るく元気な村の生活が戻ってきました。ことの次第を行基から聞いた人々は、この仏さまを難病除けの薬師さまといって拝むようになりました。
その後、朝日薬師は東大寺に奉納(ほうのう)されましたが、源頼朝が祈願して病が平癒したことにより、朝日薬師は鎌倉に迎えられました。その新田義貞による鎌倉攻略の戦火を逃れ、矢部野の元薬師山の薬師面(現在の洋光台北公園)に安置されました。 その後、田中村に奉じられましたが、再び開創の地である矢部野に戻り当山に奉安されました。
前記の奥之院朝日薬師如来は、本堂の奥の御簾の中にご安置されております。この薬師如来は、平安時代後期の作で、御丈三尺二寸の一木鉈彫(いちぼくなたぼり)の非常に古いもので平成18年に横浜市の有形文化財に指定されました。



















