Archive for the ‘今月の言葉(掲示伝導)’ Category

「先が見える」

月曜日, 1月 16th, 2012 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

むかし、独りの老人が暮らしていました。
朝夕の野良仕事の行き来には、必ずお寺に立ち寄り、お念仏をとなえる毎日でした。
村の若者たちは、そんな老人を日頃から馬鹿にしていました。
 

ある日、「なあ、爺さんよ、お前はその齢になって地位も名誉も財産もない。本当につまらぬ人間だな。爺さんを金の値にたとえるなら最低の一文銭だ」とあざ笑いました。


老人は、「なるほど、わしはー文銭かもしれん。それなら若い衆よ、お前さんたちはどれほどの価値かな」
とたずねます。
「俺たちの人生は前途洋々、金ぴかぴかの最高の小判だ」という答えに老人は、

「一文銭は、穴が空いているから先がよく見える。小判は、今の自分のまぶしさで先が見えん。転ばぬよう気を付けてな」と論したそうです。
 

この世の輝きではなく、しっかリと往く先を見据えた生き方こそ、浄土宗『法然上人のお念仏のみ教え』にほかなりません。

三浦組 東漸寺 小松崎成淳

「南無阿弥陀佛」

月曜日, 12月 5th, 2011 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

本年もいよいよ師走を迎え、やっと例年通りの寒さがやってまいりました。

「もう元に戻っている…」境内の落ち葉のことです。朝、境内を箒で掃きます。するとお昼過ぎくらいには朝と同じようにたくさんの葉が落ちている景色があります。我々僧侶は一掃除、二勤行と言うほど掃除は大切なことでありますが正直に申しますと「今朝あれだけ掃除したのに」という思いも時折ございます。それはやはり見返りを求めているからではないかと思うのです。人は何かをしたときにその結果あるいは効果をどうしても期待してしまうのではないでしょうか。

 法然上人が生涯をかけてお示しになられ、八百年の間脈々と伝えられてきた専修念仏の教え。「南無阿弥陀佛」と称えれば阿弥陀如来によって必ず極楽浄土に導いていただける。本宗の僧侶、檀信徒であればどなたでも知っていることであります。念仏を称えたからといって病気や怪我が治癒したり、頭が良くなったり、といったことはありません。見返りを求めずただひたすらに日々の生活の中に念仏を称えることが大切な姿勢なのだと思います。    合 掌

鎌倉組傳福寺  鈴木顕祥

「お彼岸からお念仏の結縁を再確認」 

火曜日, 3月 1st, 2011 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

  あと2週間経ちますと、春のお彼岸がやってまいります。お浄土に往っておられるご家族をご自宅に招き、心から亡き方へ感謝を表し、ご供養を捧げいたしましょう。

 彼岸の時期というのは、私達にとって、お念仏のご縁を戴く最高の機会です。人としてこの世に生まれ、仏教に巡り会い、その中でも『お念仏』の教えにご縁を頂けたことは、有難いことであると思います。それは、仏様の教えのお念仏こそ、苦しみ迷いの世界(六道輪廻)から抜け出す唯一の教えなのです。これを解脱といいます。

 私事になりますが、先日、親戚の者を亡くしました。大切な人を亡くした悲しみは、そう簡単に薄れるものではありませんが、故人のことを思い出しますと、自然と感謝の思いが湧いてくるのを強く感じます。

亡き方には、大変お世話になったからこそ、極楽に往って頂き、真の幸せを掴んでもらいたいと願わずにはいられません。その為には、最後の最後までお念仏を唱えお送りすることが、私達にできる唯一のことなのではないでしょうか。

 日常では、忙しい忙しいとなかなか仏道修行が出来ない私達にとって、お念仏とのご縁を無駄にしないために、このお彼岸から少しでも多くのお念仏を唱えて頂き、亡くなった方への感謝の気持ちを新たにしましょう。

小田原組常光寺 阿川貫浄

「「憧れを」大事にして」

火曜日, 2月 8th, 2011 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

 恥ずかしながら学生時代宗教って何だろうと思っていました。そのように自分の中ではっきりしないままお寺を手伝っている事、次の住職として檀家の皆様にかわいがって頂いている事に疑問さえ持っておりました。寺に生まれたのが自分でなければ皆さんのために良かったのにと思っておりました。そんな時ある牧師さんのお話を聞く機会がありました。

 その牧師さんはヨーロッパから日本に来て布教を行っている方でしたが日本で一番不思議なのは神の奇跡がなければ何故信じられないのだろうと言うことでした。聖書のお話をさせていただくと皆様その通りだと納得される。良いことだと思う、しかし自分は神が自分に奇跡をもたらすわけではないので信じられないし、実践できないと答える。良いと思っても自分に利がなければ信仰しないと答える。だけれども日本人はひとに親切に接している。他者への愛を実践しながらその元となる神は拒否するのがよく分からないとのお話でした。その時別の先生が宗教とは聖なる価値観への憧れ、こうあって欲しいなという事を信じることなんですけど、宗教という言葉への拒絶が強いですよねとお話をまとめられました。その時私はそういうことかと不意に納得できました。その価値観が良いと思い、そうあって欲しいと信じていくことが「信じる」と言うことなのだと言うことが腑に落ちたのです。

 浄土宗の教えでは亡くなりますと西方にある極楽浄土に行き、阿弥陀様のご指導を頂きながら悟りへの修行を重ねて行くこととなります。皆がその世界で再会することが出来ます。私自身もいずれまた再会を期することが出来るという価値観に強い憧れを持ちます。これからもその憧れを力にして、阿弥陀様を信じていきながら「南無阿弥陀仏」とお唱えしていきたいとおもいます。

 

中郡組霊山寺 鷲見宗信

「今日は二度と来ない」

火曜日, 2月 1st, 2011 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

 歳々年々、人同じからず。人は必ず老いていくものです。小から壮、壮から老へ、人生は足早に去っていきます。

今日という日は一回、二度とこない。誰でも知っていることですが、そう気にしつつ毎日を送る方は少ないのではないでしょうか。

 かくいう私もその一人、子どもは日に日に体、頭脳ともに成長し、学齢を重ねていきますが、成人した私たちは、見た目もあまり変化が起こらず、自覚しづらくなっています。お寺の行事に、お稚児さんとして参加していた子どもたちが、ある日、高校生や大学生になって目の前に現れると、喜びとともに、月日の流れの速さに愕然としてしまいます。私はこの子たちと同じだけの時間を過ごしてきたが、果たして同じだけ精進し成長していたか、自問しないわけにはまいりません。これまでどれだけのことが出来たか、そして何をすべきだったのかと。

 仏教の教えに、戒・定・慧の三学があります。平たく言えば、決まりを破らず(戒)、決まりを破らないために精神的に安定し(定)、安定することで智慧が生まれる(慧)という教えです。その智慧があれば、一日の生活に無駄が無く、自分がなにをするため、この世に在るのかを覚(さと)ることも出来るのでしょうが、これが難しい。きまりを破らないことだけでも、そう杓子定規に生きるのは困難なものです。

 法然上人は、当時最高学府だった比叡山で、「智慧第一の法然房」と讃えられていました。しかし自身を「三学の器に非ず」とし、覚りを得ることの出来ない、心の弱い人間が救われるには、「南無阿弥陀仏」をとなえ、阿弥陀さまの慈悲に頼る他はないと説かれました。

 そして念仏は、易しく誰でもできるから素晴らしいと、「難しいことが優れている」と思いがちな我々の目を、覚まさせてくださったのです。

 確かに、努力して結果を得ることは人を昇華させます。しかし、全ての人がなかなか同じようには出来ないのもこの世です。今日という日は二度と来ず、誰しもふり返れば後悔が残るでしょうが、それを活かしきれないのも、私たち凡夫の性なのです。何事も、自分を過信しがちな私たちですが、阿弥陀さまにおすがりし、誰にでもできるお念仏をとなえて参りましょう。

三浦組新善光寺 清水道善

「念仏の心得」

水曜日, 12月 22nd, 2010 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

浄土宗を開かれました法然上人が亡くなる二日前に、『一枚起請文』という遺言を残されておりますが、その中に『三心』という言葉がでてまいります。

三つの心。わかりやすく言えば、念仏を称える時に、心構えがとして三つありますよ、ということで、その一つに『廻向発願心』というものがございます。

これは、極楽浄土に生まれたいと願う心を持つことです。「どうぞ阿弥陀様、私も年を取り、体のあちこちが痛くなってきました。お医者さんに言っても一向に治りません。一生懸命拝みますから、体の痛み取って下さい。」と言って申す念仏は、浄土宗の念仏ではありません。

また、「年末ジャンボ宝くじ、もう何年も買っているけど、末尾の300円しかあたらない。どうぞ、阿弥陀様、今年こそは10万円、もう一声100万円、いや一等前後賞まであたるようお願い致します。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」と言って申す念仏も、浄土宗の念仏ではございません。

宝くじがあたるよう仏様にすがる気持ちは私も大変わかりますが…私達の称えます念仏は、私の様な至らない者ではありますけれども、何卒、浄土に迎え取り、往生させて頂きとうございます。と浄土往生を願っての念仏こそが、法然上人が勧められた念仏でございます。

しかし、念仏を称える心構えが決められているとしても、私達人間はなかなか守れるものではございません。法然上人は念仏を称える心構えはあるが、南無阿弥陀仏と称える内に、全て備わってくるのだと、おっしゃっております。念仏を称える時に色々な心がわき上がってくるかもしれません。

しかし、南無阿弥陀仏と称えれば、必ず極楽浄土に救っていただけると深く信じていただくことが、念仏の道を進む私達の、まず一歩になるのではないでしょうか。

鎌倉組正覚寺 脇川公暢

「一切我今皆懺悔したてまつる」

金曜日, 12月 10th, 2010 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

今年ももう終わりですね。大掃除で一年の汚れを落とし、新年を迎える準備をされているのではないでしょうか。

毎日のように掃除しているつもりでも改めて掃除すると、汚れはたまっているものですよね。それは私たちの人生もおなじこと。

私たちが日々お唱えする身近な偈文である「懺悔偈」

 

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴

従身語意之所生 一切我今皆懺悔

 

輪廻を繰り返してきた、はかりしれないほど昔からの積み重なった悪業を懺悔しますってことなのですから、本当に深い反省。日々懺悔しても、ついつい造ってしまう悪業。自分はなんて愚かな人間なのだろう・・・

そんな自分に気づいた時に「南無阿弥陀仏」と心からお称えできれば、なんとすばらしいことでしょうか。

「除夜の鐘」。108の煩悩を打ち砕く音色を聞きながら、阿弥陀さまへの感謝をあらわし懺悔の心と愚者の自覚をもって「南無阿弥陀仏」とお称えし、新年を迎えたいと思います。

 

高座組 大谷慈通

「暗夜の灯」

火曜日, 9月 28th, 2010 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

 秋も深まってまいりました。夜、虫の声を聞きながら散歩するのも気持ちが良いものです。都会の街中には街灯がありますので、夜でも歩くのに何の不自由もありませんが、ひとたび地方の山間部にまいりますと、夜になればあたり一面真っ暗で驚くほど闇が深く、一歩踏み出すにも恐怖で足がすくむほどです。そんなとき懐中電灯があれば、大変に心強く、恐れることなく前に進むことができます。

 私たち浄土宗教師は、葬儀や布教の現場で、かけがえのない家族を失い、真っ暗闇の中に突然放り出されて動くこともできずに立ちすくんでいる檀信徒の方々に、向き合わねばなりません。

 阿弥陀如来様が用意して下さったお念仏という灯を手渡し、極楽浄土への道を明るく照らし出し、闇の中でも歩いていけるよう手助けすることが、私たちの務めではないでしょうか。 

港南組 無量寺 小川真弘

「仏神は貴し、仏神をたのまず」

月曜日, 8月 9th, 2010 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

江戸時代の剣豪宮本武蔵の言葉に「仏神は貴し、仏神をたのまず」という言葉があります。神や仏は貴いものであり敬い崇めるが、神や仏にのみには頼らないという意味であります。 それと同じように、我々、法然上人のお示しくださった尊いお念仏を申す者は、必ず阿弥陀様がお浄土へ連れて行ってくださいます。このことは絶対に約束されていることですが、それに頼りおごることなく、無常の世であっても自分自身が出来ることは精一杯精進努力してお念仏を申す日々を過ごしていきたいものです。

港北組 蓮勝寺 柴田文彦

「無常迅速(むじょうじんそく)」

水曜日, 7月 21st, 2010 Posted in 今月の言葉(掲示伝導) | Comments Off

春が過ぎ、夏に移りて秋が来る。時は流水の如しといいますが、変わり行く季節に、常無きこの世の理を感じます。

ある檀家さんが法事の際におっしゃっていたことを思い出しました。

「人生八十七年生きてきたけれど、五十年も八十年も振り返ればあっという間だよ。こんなこというとおかしく思われるかもしれないけれど、二十数年前に妻を亡くした時、棺の中の顔をじっと見つめていたら、なぜか笑っているように見えました。私もそうなりたいと思います」と話されました。その言葉には、与えられた人生を一生懸命にまっとうしていきたいという篤い願いを感じました。

時は迅速に流れ行きます。檀家さんがお話されていたように、阿弥陀さまの光明に抱かれて、生けるときも往生した後も、喜び、笑って暮らせる安穏な心で、信仰の日々を送って行きたいものです。

京浜組 安養寺 古屋道正